前回からの続きです。
ホモサピエンスが手に入れた宗教観から集団を形成することができ、言葉という音声から文字の発達、言葉に吹き込まれた意味を解釈し共通認識を持つようになったと書きました。例として心って何だろうとか品質ってそもそも何だろうみたいなことを書きましたが、私たちの日常には数えきれないくらい目に見えもしない実態のない概念での情報交換が当たり前になっています。
次に言葉の面白さについてこんな文が有名です。
「この文は嘘である」
この文は正か嘘か。正ならば文は嘘になるし、嘘ならばこの文は正になる。一見正しそうな論理を積み上げていくと結果的に論理が破綻して矛盾が生じてしまうパラドックスは、言葉に向き合うことの面白さを教えてくれます。
次の例も似たようなものですが、砂山のパラドックスというものがあります。砂山から砂を一粒ずつ除いていくと、どこから砂山ではなくなるのか?という話です。「山」という言葉がありますが、どの高さからが山でどれだけ土を除いていけば山ではなくなるのか。このように言葉を考えていくと、私たちはなんてふわふわした概念で社会が成り立っているのか?と思えないでしょうか。この「山」、例えば複数人いる中の山田さんのあだ名が「やま」であれば、その仲間内では山田さんという「人」を指しますし、「今晩が山です」と言われれば「命の終わり」を意味したりもします。どんな文脈で使われるかで意味が変わりますからやっぱり言葉って面白いと思います。
さて、どんな文脈で使われるかで意味とか概念が変わるのであれば、逆に意味や概念が同じか似ていながら違う言葉を用いることも私たちには違った印象をもたらしてくれるのではないでしょうか。例えばAさんに、「Zさんに相談してみたら?」という助言と、「Zさんにあなたの想いを素直に話してみたら?」という二つのアプローチがあった場合、どちらがAさんは行動を起こしやすいでしょうか。意味は似たようなもので、どちらも「Zさんに話をしてみる」という行動ですが、勧めている言葉は全然違います。「明日は晴れるみたいだね」という場合と、「明日は海水浴日和だね」とか「明日は日焼けが大変そうだね」など、言葉を変えて話すだけで相手の受け取る印象や頭に浮かぶイメージは全く違ってきます。
そしてもう一つ、言語哲学の観点から書きますが、「私たちは一つのことを人と話していても、理解し合うことはできない」ということです。例えばBさんとYさんが「サファリパークが楽しい」という話をしても、BさんとYさんがそれぞれに持つ過去の記憶の中からお互いが話をしていますから、頭に浮かんでいる「サファリパーク」も「楽しい」という事実も違うわけです。しかし、BさんとYさんは「サファリパークは楽しい」という話の内容は成立しています。お互い話が合っているように思えますが、話が合っているように思えているだけと思っておいた方がいいでしょう。(この辺りはウィトゲンシュタインやフッサールを調べると面白いかもしれません)
よく無駄のない効率的な会議をするときに「前提知識を揃える」と言われるのも、極力理解度や知識の差異をなくし同じレベルで議論ができるようにすることに重きが置かれるわけです。役職による立場や考え方の違い、業務内容や担当現場の違い、個人個人が持っている教養や素養などがバラバラな状態では議論がカオスになりかねませんから、言葉の定義を決め、前提知識を揃えてよーいドン!で会議を進めていくわけですね。
ここまでまあツラツラと面倒なことを書いてきましたが、私たちはそれくらい「ふわふわ」した「声(音)」、「言葉」で日々情報を交換したりして社会が成り立っています。それは会社でとても重要な「目的」を理解したり「ゴール」を目指すこともしかりです。
組織が形成された集団の中にいる私たちがすべきことは、言葉にもっと向き合うことと、言葉がいかにふわふわしたものであるかを理解するところからが非常に大切になってくると思います。
言葉の定義を決めていく意味は、言葉のもつ「ふわふわ」を可能な限り、はっきりと言語化して誰もが誤解なく、齟齬なく同じ意味として受け取れるようにすることにあります。言語化しなければ人に伝えることも行動を指示することも、行動を起こすこともできません。どんなに自分は作業ができたとしても、言語化できなければ自分でも理解できていない証拠です。言葉に落とし込めていなければ、なんとなくの理解でしかありません。
人に何かを依頼されたとき、“てっきりこうだと思った”といって、違うことをやってしまった経験は誰にでもあることでしょう。笑い話で済めばいいですが、そのままやってたらちょっとヤバかったな・・なんて経験がある人も意外と多いのではないでしょうか。そのような事はもちろんない方がいいのですが、大きなコミュニケーションロスになっています。
普段の日常会話であれば気にすることもないですし、むしろ言葉はふわふわしていた方がいい場面の方が多いかもしれません。会話がスムーズで楽しいコミュニケーションも大切だと思います。普段はふわふわ会話を楽しみ、重要な仕事の場面や問題の解決に向かうときには“ふわふわ”をしばし外すなど、状況に応じて言葉に向き合うことが大切だと思います。
日々継続して言葉に向き合い続けると、間違いなく未知なる自分に出会えると私は考えています。